石原プロが年内解散?
石原プロモーションは昭和の大スター・石原裕次郎が1963年に設立した個人事務所で、石原の主演映画を製作。
後に渡哲也、舘ひろし、神田正輝ら石原を慕う俳優たちが集まり、芸能プロダクションとして再スタートを切った。
1987年に石原が亡くなった後も、渡哲也や石原の妻である石原まき子が中心となり、会社を経営している。
所属俳優はそれぞれ別の芸能事務所に所属する見通しで、年内には何かしらの発表があるのではないかとされている。
石原プロは長年闘病生活を送っている渡哲也の健康問題のほか、石原夫人の高齢化などもあり、お互いの体力があるうちに店じまいを決意した、とされているが、上記以外にも抱えている原因は多数ありそうだ。
現在、石原プロは渡哲也、神田正輝、舘ひろしらベテランをはじめ、徳重聡、宮下裕治、池田努ら「21世紀の石原裕次郎を探せ!」および「石原プロ次世代スター発掘オーディション」で選ばれた俳優ら9人で構成されている。
しかしながら「裕次郎を探せ」も「発掘オーディション」もテレビを巻き込み大々的に取り組んだにもかかわらず、スターを育てることができず「先細りでは」と心配されていた。
また、石原プロはもともと映画やテレビドラマの制作プロとしてスタートを切ったものの、ドラマ業界そのものが斜陽化。
「石原プロの大番頭」として有名だった名物専務・小林正彦氏(2016年に死去)の引退もあり、2008年以降はドラマを制作していなかった。
また、そもそも石原プロの原点である石原裕次郎の姿をリアルタイムで見たことがあるファンも減少。北海道・小樽市にあった「石原裕次郎記念館」も2017年に閉鎖するなど、暗いニュースが相次いでいた。
実は抱えていた事業の多くが「軽量化」していた石原プロモーション。新元号とともに解散するのも時代の流れとして、仕方ないのかもしれない。
引用元:週刊大衆オフィシャルサイト
舘ひろしは独立するの?
舘 ひろしプロフィール
本名 | 舘 廣(たち ひろし) |
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別名義 | たちひろし(1975年 - 1976年) |
生年月日 | 1950年3月31日(69歳) |
出生地 | 日本 愛知県名古屋市中区老松町(現・名古屋市中区新栄) |
身長 | 179 cm |
血液型 | A型 |
職業 | 俳優・シンガーソングライター |
活動期間 | 1975年 - |
活動内容 | 1975年:デビュー 1976年:『男組 少年刑務所』 1979年:『西部警察』 1980年:『薔薇の標的』 1983年:石原プロ入社 1986年:『あぶない刑事』 1987年:『あぶない刑事 (映画)』 1994年:『免許がない!』 2006年:『功名が辻』 2011年:石原プロ取締役辞任 |
配偶者 | あり |
事務所 | 石原プロモーション |
主な作品 | |
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テレビドラマ 『西部警察シリーズ』 『あぶない刑事シリーズ』 『ゴリラ・警視庁捜査第8班』 『刑事貴族』 /『代表取締役刑事』 『愛しの刑事』/『功名が辻』 『パパとムスメの7日間』 『隠密八百八町』 / 『坂の上の雲』 『なるようになるさ。』 映画 テレビアニメ |
来歴・人物
デビュー前
名古屋市立新栄小学校、名古屋市立白山中学校、愛知県立千種高等学校を経て千葉工業大学工学部建築学科中退。身長179cm・体重68kg・血液型はA型。
先祖は尾張藩の武士で、旧士族の家柄。代々の住まいは徳川家から拝領した「徳川家の離れ」だった。
実家は明治期に父が開業した舘医院(現在は、実弟が家業の医院を引き継いでいる)で、父親は内科医。弟も舘ハートクリニックを開業している。
小学生時代は鈍臭かったため、当時は「どんくさ舘」と呼ばれていた。
官吏であった祖父が英国好きで、舘家には牛乳紅茶を飲む「ティータイム」があった。
舘自身もその後英国好きになり、1996年8月、元日産ミスフェアレディの妻との結婚式は英国で行っている。
舘の愛車はモーガンで、毎週の乗馬への往復時など自分で運転する時はモーガンに乗っている。
また、仕事時など自分で運転しない時はジャガーに乗っている。どちらも英国製自動車である。
高校時代にはラグビー部の主将を務める。
千葉工業大学に入学。同大学の千種寮に入るがその厳しさに夜逃げし、学生の間で「夜逃げの四棟」と呼ばれる伝説となっている。
大学生時代のバイト先(原宿にあった洋服屋「GRASS」)の同僚にドン小西がいた。デビュー後も同大に長らく在籍したままだったが、中退した。
クールスから俳優へ
その後は岩城滉一とともに原宿・表参道を拠点にした硬派バイクチーム「クールス」を総括。
矢沢永吉がリーダーだったロックバンド「キャロル」の親衛隊として有名となり、キャロルの解散コンサートのDVDにも登場している。
1975年、バイクチーム「クールス」からの選抜メンバーで結成されたロックバンド「クールス」のボーカルとして『紫のハイウェイ』矢沢永吉(五大洋光)作曲でデビュー。
その後のソロデビューには"太ったブタが勝つか、しなやかな狼が勝つか"とのキャッチフレーズでプロモーションに打って出て、矢沢を挑発するものとして話題を呼んだ。
また、当時の東映社長・岡田茂に誘われ東映に籍を置き、『東映俳優センター』に所属、俳優としてのキャリアもスタートさせ1976年、松田優作主演の『暴力教室』に出演した他、同年『男組 少年刑務所』で映画初主演。
1978年には『皮ジャン反抗族』(長谷部安春監督)、1980年『薔薇の標的』(村川透監督)と東映で計3本の主演映画が製作された。
これらの映画は暴走族のイメージがあるクールスを引きずり、また実際に本人の趣味でもあったため、オートバイを駆使する姿がトレードマークとなった。
『西部警察』シリーズでの登場をきっかけに渡哲也と出会い、最初は、ハーレーダビッドソンを駆使する無頼漢的キャラクターの巽総太郎(愛称「タツ」)役で登場していたが、番組初回から半年間の出演契約となっていたために、半年後の第30話で西部署で最初の殉職刑事となり一旦降板している。
西部警察の撮影初日、東映時代から愛用している黒いディレクターズチェアを石原、渡のディレクターズチェアの横に置いたところ、石原から「10年早いな」と言われ、周囲のフォローを無視して「時代が違いますよ」と反論すると、石原は「悪かったね。時代が違うんだ」と笑って理解を示した
引用元:wikipedia
神田正輝は大手事務所と提携するの?
神田 正輝プロフィール
本名 | 神田 正輝 |
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生年月日 | 1950年12月21日(68歳) |
出生地 | 日本 東京都港区 |
身長 | 178 cm |
血液型 | A型 |
ジャンル | 俳優、タレント |
活動期間 | 1976年 - |
活動内容 | 1976年:『大都会 闘いの日々』でデビュー 1978年:『青春ド真中!』、『ゆうひが丘の総理大臣』 1979年:『俺たちは天使だ!』 1980年:『太陽にほえろ!』 1997年:『朝だ!生です旅サラダ』司会 |
配偶者 | 松田聖子(1985年 - 1997年) |
著名な家族 | 旭輝子(母) 神田沙也加(長女) |
事務所 | 石原プロモーション |
公式サイト | 所属事務所公式 |
主な作品 | |
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『太陽にほえろ!』 『山村美紗サスペンス 赤い霊柩車シリーズ』 『朝だ!生です旅サラダ』 | |
備考 | |
石原プロモーション取締役(‐2011年3月28日) |
略歴
中学時代は、陸上部・水泳部・バスケットボール部・天体観測部を掛け持ち、スキーとダイビングも経験。将来はペンションか海の家の経営を夢見ていた。
大学時代、プロ級のスキーの腕前を生かし、テスター(スキー板の開発)のアルバイトを経験する。
海外のスキー場にも行き、氷河の上を滑ったこともある。命がけの仕事なので給料は高かったが、やがてスキーが嫌いになってしまったという。
1973年(23歳)、レストランで俳優・石原裕次郎に声をかけられ意気投合し、その一週間後、石原からの誘いで日活を見学。
さらにその一週間後、石原から「ひやかしでドラマ1本にでてみないか?」と言われ、端役でドラマに出演。
その後、石原が社長を務める石原プロモーションに入社した。
1976年 (26歳)、 日本テレビ系列「大都会 闘いの日々」にて新聞記者・九条浩次役で俳優デビュー。
当時は現地の長野の方言で苦労したという。翌年の第2シリーズ「大都会 PARTII」にも刑事役で第14話よりレギュラー出演し、松田優作らと共に激しいアクションシーンも披露する。
その後、石原に頼まれ神田を引き受けた岡田晋吉がプロデュースした「青春ド真中」、「ゆうひが丘の総理大臣」、「俺たちは天使だ!」で、「気弱な美男子」を演じてハマリ役となった。
1980年(30歳)、日本テレビ系列「太陽にほえろ!」415話より、第1話から小野寺昭が演じた島公之(通称・殿下)刑事の後任で、医学部中退の西條昭(通称・ドック)刑事役で出演し、以後、1986年の最終話まで出演する代表作となる。
「太陽にほえろ!」は神田の登場に合わせ、1970年代の生真面目な作りから1980年代の漫才ブームが起こり喜劇が求められる時代にマッチした笑いを重視した作りに番組カラーを転換した。
神田は「太陽にほえろ!」の寿命を大きく伸ばすことに貢献、14年続いた番組の後半を支えた。
1985年(35歳)、 映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演した歌手・松田聖子と結婚。
当時既に人気俳優だった神田とトップアイドルだった聖子の華やかな結婚は、「世紀の結婚」をもじった「聖輝の結婚」と呼ばれた。
翌年、聖子との間に娘・神田沙也加(歌手・女優)をもうける。
1995年(45歳)、NHK『とおりゃんせ〜深川人情澪通り』で時代劇初主演。ヒロイン(妻役)は池上季実子。神田にとって「好きな作品・思い出の作品」であるという。
1997年1月(47歳)、結婚生活12年で松田聖子と離婚。
1997年4月(47歳)、大阪・朝日放送の生放送番組『朝だ!生です旅サラダ』の司会となる。
2004年(54歳)、1995年にNHKで放送された『とおりゃんせ〜深川人情澪通り』を、自らの提案で舞台化して主演。
神田にとっての初舞台で、ヒロイン(妻役)は今回も池上季実子。
前述のようにスキーの腕前はプロ級であり、神田のスキー術を披露するために作った『太陽にほえろ!』の第449話「ドック刑事 雪山に舞う」第450話「ドック刑事 雪山に斗う」のロケでは、スキーを滑るシーンも全てスタント抜きの本人演技でこなした。
吹き替えにきたスキーヤーより神田の方がうまかったという。
水上スキーでは背広のままこなし、洋服を全然濡らさなかった。
1999年より自身の名を冠したスキーコンペを志賀高原で開催している。さらにゴルフ、テニスも得意。スポーツが好きで運動神経も高い。
ダジャレ好きで、「太陽にほえろ!」でドック刑事を演じた際も、劇中でしばしばアドリブのダジャレを披露していた。その後も自身の出演番組でダジャレを披露することが多い。
デビュー間もない頃、台本は暗記してこい、という意味で石原裕次郎に「台本なんか捨ててしまえ。」と言われたが、額面通り受け取り、ろくに読みもせずに捨ててしまった。
そして、セリフを発することができなかったため、共演の宍戸錠にあきれられたという。
銃に対する知識が深く、ドック刑事役の際には、背中に銃を横向きに付ける形(手を背中に回せばそのまま握って抜ける。前からは絶対に見えない)の『バックサイドホルスター』を新たに作り、ガンマニアには『ドック・ホルスター』の名で親しまれた。
ドック役では、S&W M59を愛用したが、犯人が44マグナム弾を使用したときには、対抗してコルト・ゴールドカップナショナルマッチを使い、銃による反動の違いも表現するなど、マニアに好評だった(当時の月刊誌Gunにも掲載された)。
長野オリンピックの前年1997年から長野県志賀高原で、毎年3月にスキー(大回転)の大会「神田正輝カップ」を主催している。
参加者100人前後の大会で、神田はオーガナイザーをしているほか、技術代表としてコースの点検・確認のため自らも滑ってもいる。
「仕事しているときはあまり笑わないが、スキーをしているときはよく笑う。役者やっているときよりイイ顔している」とのこと。
健康のためになるべくエレベーターを使わないで階段を使い、つま先歩きをして体を鍛えている。
引用元:wikipedia
まとめ
最近の若い人にとっては石原裕次郎って誰?
という感じなんでしょうね!
石原プロはテレビドラマ「西部警察」の時が全盛期で、もともとは映画の製作を手掛ける事務所だと思いますが、最近では映画製作もなく渡哲哲也も体調が良くないみたいで、ここら辺が潮時だと判断されたのでしょうね。
所属事務所の俳優さん達の今後の活躍を期待しています。
とこぞうでした。
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